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ポール・ゴーギャンとは?壮絶な彼の人生を解説

2023/04/03
TRiCERA ART TRiCERA ART

フランス出身の画家、ポール・ゴーギャン。
有名なゴッホの「耳切り事件」に関係していたことや、代表作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》などを聞いたことがあるかもしれませんが、他のことについてはあまり一般的には知られていないと言っていいでしょう。
しかし、彼はアート・オークションの世界で見ても超高額取引されている画家の一人です。
ゴーギャンは一体どんな画家なのか。その人物像を垣間見てみましょう。


ゴーギャンとは?画家の生涯を解説

ポール・ゴーギャンの生い立ち

1848年、パリに生まれました。ジャーナリストの父を持ち、母はペルー系の血を引いていました。
ゴーギャンが3歳の時、ナポレオン3世のクーデターが勃発し、共和主義者だった父は失職しました。その結果一家でペルーに向かうことになりますが、父はペルーへの航海中に急死してしまいます。
ゴーギャンを含め遺された家族はしばらくペルーに留まったあと、ゴーギャン7歳の時にフランスに帰国しました。

カトリックの厳格な学校に通ったのち、海軍予備学校に入学しようとしますが、入試に落第します。
その後13歳の時、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡ることになります。
その後兵役などを経た後、株式仲買人として働くようになります。

株式仲買人としてのゴーギャン

その後11年間にわたり実業家として成功し、1879年には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていました。
仲買人の仕事を始めて2年が経った25歳の頃家庭を持ち、5人の子供をもうけました。

妻メットとの写真, 1885

ゴーギャン、画家への道

株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになっていました。
彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていました。

カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描くようになります。
ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介しました。
1876年、ゴーギャンの作品の一つがサロンに入選します。これをきっかけに、自宅にアトリエを構えて趣味を超えたレベルで絵にのめり込むようになります。

Study of a Nude (Suzanne sewing), 1880

画家としての転向

1882年、パリの株式市場が大暴落しました。その影響で収入が急減したゴーギャンは、次第に絵画を本業とすることを考えるようになります。
以前から親交のあったピサロやセザンヌと共に過ごし、ピサロにはアドバイスを求める手紙も送っています。妻のメットはこれをきっかけに、出身であるデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまいました。
その後、一度ゴーギャン自身もコペンハーゲンに住みますが、やはりパリでの生活に舞い戻ります。
息子の病気など様々な事情が重なり制作には打ち込めない日々が続きましたが、次第にピサロなどの印象派の中心的な画風からは袂を分つようになり、のちに「クロワゾニズム」や「綜合主義」とも呼ばれるようになる、彼独自の象徴主義的なスタイルを開花させ始めます。

Women Bathing, 1885


クロワゾニズムの代表的作品, The Yellow Christ (Le Christ jaune), 1889

ポン=タヴァンのコミュニティでの生活

ゴーギャンは、1886年、フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン=タヴァンの地で一夏を過ごします。生活費が安いから、というきっかけで移り住みましたが、この地のコミュニティを形成していた若い画家たちとの交流は、ゴーギャンの意図しない収穫をもたらします。
のちに幾度も訪れることになるポン=タヴァンでは、シャルル・ラヴァル、エミール・ベルナール、エミール・シェフネッケルなどの画家と交流しました。
彼らの絵画の特徴は、純色の大胆な使用と象徴的な画題にあります。

ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに対する反感からの活路として、彼らのスタイルを取り入れました。
神話的・象徴的な表現を多用しているものとして、アフリカやアジアの美術にも注目していました。

Charles Laval, Self Portrait, 1888


エミール・ベルナール, ポール・ゴーギャンの肖像を背景とした自画像, 1888


エミール・シェフネッケル, synthetist landscape, c.1900


ジャポニズムに大きな影響を受けた画家ゴッホによる歌川広重の浮世絵の模写, 1887

マルティニーク島への旅

1887年、ゴーギャンは、約半年間、ポン=タヴァンで出会った友人のシャルル・ラヴァルとともに、フランスの海外県の一つである、カリブ海に位置するマルティニーク島に滞在しました。
赤痢とマラリアにも苦しまされながらも、屋外で明るい情景を描き、インド的モチーフも取り込むなどゴーギャンに新しい視点をもたらしました。

マンゴー摘み, 1887年


Bord de Mer II, 1887

ゴッホとの共同生活

マルティニークで制作した作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示されました。
この店で同様に取引をしていたフィンセント・ファン・ゴッホは、ゴーギャンの絵を見て深い感銘をうけ、二人の伝説的な画家の親交が始まります。二人は手紙で芸術論を戦わせたり、お互いの肖像を描きあうなど、深い交流を始めました。
1888年、ゴッホが南仏のアルルに持つ「黄色い家」で、ゴッホとゴーギャンの3ヶ月の共同生活が始まります。しかし、2人の芸術観はまったく噛み合わず、関係は間もなく悪化、ゴーギャンはここを去ることとなりました。
同年12月23日、ゴッホが耳を切る事件が発生しました。ゴーギャンの後年の回想によると、この時ファン・ゴッホは剃刀を持って自身に向かってきたため、怒鳴って追い返すと、同日夜にファン・ゴッホは左の耳たぶを切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したといいます。
翌日、ファン・ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンは同地を去りました。

ゴッホが描いたゴーギャン


ゴーギャンが描いたゴッホ

最初のタヒチ滞在

ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出を図るため、ゴーギャンはポリネシアに存在するタヒチ島に旅行します。
この時期に、ゴーギャンの傑作の多くが生み出されました。
のちに、ゴーギャンはこの滞在をもとにした『ノアノア』という紀行文を書いています。
当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていましたが、現在では空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されています。
この本で、彼はテハーマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしています。1892年夏の時点で彼女はゴーギャンの子を妊娠していましたが、流産したとされています。

その後パリに戻り展覧会などを開きますが、売れ行きは芳しくありませんでした。取引のあった画商のデュラン=リュエルとの取引を失ったりなどの受難が続きますが、中でも妻メットとの破局は決定的になっていました。泥臭い金銭問題をめぐっていがみ合いが続き、二人が顔を合わせることはもう二度とありませんでした。

二度目のタヒチ滞在

その後、かつての盟友エミール・ベルナールや詩人で美術批評家のモークレールなどから批判的な記事を書かれたことをきっかけに、パリ美術界から孤立したゴーギャンは1895年、再び逃げるようにタヒチを目指します。
二度目の現地では徐々に生活も安定し、地元の雑誌に寄稿したりのちに編集者になったりもしました。彼の寄稿は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴でしたが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかったといいます。

徐々に健康状態が悪化してきたゴーギャンは、骨折や梅毒などに苦しみました。
同時に、この時期にはパウラという当時14歳の少女を妻としており、2人の子供をもうけました。

マルキーズ諸島滞在、そして死去

より原始的な社会を求めて、ゴーギャンはタヒチからさらにマルキーズ諸島に旅立ちます。
実際のマルキーズ諸島は、太平洋の島々の中でも最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々であり、18世紀には8万人いたという人口は当時4000人にまで落ち込んでいました。
またタヒチと同様西欧化され、既に独自の文化を失っていました。

現地で居を得たゴーギャンは、再び14歳の少女ヴァエホを妻とし、自身の悪化し続ける健康状態を看護してもらいながらも精力的な制作を続けました。

赤いケープをまとったマルキーズの男, 1902

1902年、体力の落ち込んだゴーギャンは、『前後録』と題された、芸術批評や個人的な嫌悪感を持つ現地の司祭・元妻のメットやデンマーク人一般への悪口などが雑多に書かれた手記を書くなどしました。
その後モルヒネなどに頼り続けたことも原因なのか、1902年5月8日の朝に急死します。
その時期、地元の憲兵を告発する内容の運動をしていたり、そのせいで名誉毀損で逆に訴えられたりするなど暗澹たる最期を迎えていました。


ゴーギャンの作風変化を一気見!

果物籠とレモンのある静物


Still-Life with Fruit and Lemons, c. 1880
成人してから画業をスタートさせたゴーギャンは、株式仲買人時代の真面目さが伺えるような几帳面な画面構成を試みていました。

ブルトンの4人の女性のダンス


Four Breton Women, 1886
クロワゾニズムや綜合主義とも呼ばれる、輪郭線や原色を多用した画面づくりが特徴的です。

花を持つ女


Vahine no te tiare (Woman with a Flower), 1891

死霊が見ている


Spirit of the Dead Watching, 1892

オヴィリ(彫刻)


Oviri (Sauvage), 1894
タヒチで、原始的な社会に触れたゴーギャン。肌色の違う民族、新奇に感じられる慣習などをモチーフにし、部族社会を見つめる第三者としての視点を育みました。
このような視点は、現在では文化人類学者といった人たちが研究のためにその社会に入り込み溶け込むことで得るものです。ゴーギャンは、南の島を征服しウェスタナイズした自身の西洋人としての姿をどのように捉えていたのでしょうか。

マハナ・ノ・アトゥア

Mahana no atua (Day of the God), 1894

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》


我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか, 1897
ゴーギャンの代表作。深遠な哲学的テーマを思わせるこのタイトルは、タヒチの原始社会に受け継がれた神話と語りを想像させます。この作品については、以下の記事で詳しく解説しています。
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》?ゴーギャンの名作を解説!

オウムのいる静物


Still life with Exotic Birds, 1902


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現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net