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  • CURATOR’s EYE

【大規模回顧展】エゴン・シーレ:今更聞けない!巨匠を解説

2023/01/20
TRiCERA ART TRiCERA ART


Self-portrait with black clay pot, 1911

エゴン・シーレ(1890 - 1918)は、オーストリア生まれの画家です。2023年1月26日 (木) ~ 4月9日 (日)に東京都美術館で開催されるエゴン・シーレ展にちなみ、個性派画家の生涯と作品を解説していきます。
20世紀末に生まれたシーレは、捻じ曲げられた独特の人物のドローイングで有名です。グスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求しました。強烈な個性を持つ画風は見る者に感覚的な衝撃を与え、表現主義というカテゴリーに分類されることが多いのが特徴です。


シーレの生涯:幼少期
幼い頃、シーレは汽車に取りつかれていました。列車のスケッチを大量に描き、父がスケッチブックを捨てなければならないと思うほどに没頭していました。小学生〜中学生の頃は、体育と芸術科目以外の教科は点でダメだったと言います。また、4つ下の妹ゲルトルード(ゲルティ)に近親愛を抱いていたと言われ、16歳の時、当時12歳のゲルティを無許可で連れ出しトリエステのホテルで二人で過ごしたという逸話も残っています。


アカデミー時代
初めての専門的な美術教育は、1906年からウィーン工芸学校で始まりました。そこは、クリムトも以前学んでいた学校でした。入学後1年以内に、ウィーン美術アカデミーへと移籍し純粋芸術を学ぶことになります。
1907年にシーレはグスタフ・クリムトと知り合いました。クリムトは若手のアーティストのメンターとして非常に大きな働きをしており、シーレには特に目をかけていたと言います。シーレと自らのドローイングを交換したり、モデルを手配してやったりパトロンに紹介したりと援助を惜しみませんでした。また、分離派の画家たちも在籍していたウィーン工房へも紹介で入ることになります。
1909年に、シーレは仲間とともにアカデミーを去り、独自のグループNeukunstgruppe(新しいグループ)を立ち上げました。この時期、シーレはクリムトココシュカの影響を大きく受けていました。しかし、すぐに独自のスタイルを開発することになります。

Living room in Neulengbach, 1911


オスカー・ココシュカ


グスタフ・クリムト|The Kiss, 1907–08

シーレスタイルの完成

同年、クリムトに誘われてKunstschauに出展したシーレは、エドヴァルド・ムンク、ヤン・トーロップ、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と出会い、印象派やポスト印象派のスタイルに衝撃を受けました。彼らの影響で人間の形態から自由になったシーレは、その後「性」の表現からも自由になります。

Self-Portrait Squatting, 1916


ヤン・トーロップ|Trio fleuri (1886)


エドヴァルド・ムンク|叫び


フィンセント・ファン・ゴッホ|ひまわり

シーレが自画像を描いたのは20歳の時でした。その後の一連の独特のドローイングは、端的に言えば「性的に性を描いた」のです。
彼以前、すなわちクリムトもエロティックな人物像を多数残していますが、そちらはもっと美的に浄化された世界でした。
それに対して、シーレの人物は生々しく、毛深く、骨ばった体をしています。まるで彼らはセックスのために生きており、性行為は彼らの人生の本質であるかのような視線を漂わせて、シーレ自身、そしてモデルたちはポーズをとっています。ここにおいて性行為はそれ自体が目的であり、何か別のもの—愛し合う崇高な人間たち—に変身するための手段ではないのです。

The embrace (Lovers II), 1917

ノイレングバッハへの移住と逮捕

安価なアトリエとインスピレーションを求めてノイレングバッハという村に引っ越してきたシーレは、住民に怪訝な態度で迎え入れられます。
1912年4月、シーレは13歳の少女(性的同意が認められていたのはあ14歳以上)を誘惑したとして逮捕されました。

警察がアトリエに入ると、夥しい数の卑猥なドローイングがアトリエ中に散らばっていました。これらはポルノと判断され、裁判所でもそのドローイングの一枚が裁判官の蝋燭で燃やされました。
起訴された内容は棄却されたものの、猥褻物を少女の目に入るところに陳列したとする別の訴状で、合計24日間の勾留を受けることになりました。この期間に、留置所で過ごした苦しい思いを12枚のドローイングとしてシーレは残しました。

Schiele's drawing of his prison cell in Neulengbach

結婚、従軍、そして死

1914年、ウィーンに戻ったシーレは、通りを挟んだ向かい側に住んでいた中産階級職人の娘、ハルムス家のエーディトとアデーレ姉妹と知り合っていました。結局シーレは妹のエーディトと結婚しました。結婚はエーディトとしましたが、義姉のアデーレとも密接な関係を持っていたと言います。下着姿の義姉アデーレをモデルにした作品『紫色の靴下をはいて座っている女』(1917年)があり、この時期にシーレとの性的関係があったことを義姉アデーレが告白しています。

Seated woman with bent knees, 1917

結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されました。その間作品制作は中断されましたが、前線には配属されず、主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めながら戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができました。更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだと伝えられています。

従軍中のスケッチ, 1915年

1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展でシーレは50点以上の新作を一挙に公開しました。
それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めた。シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになりました。同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区ヒーツィング・ヴァットマン通り6番地に新アトリエを構えました。高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出しましたが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、10月31日に亡くなりました。義姉アデーレ・ハルムスによると、臨終に際してシーレは「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったとされています。

Friendship, 1913


The Family, 1918


Stein an der Donau II, 1913

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著者

TRiCERA ART

現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net