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花の画家、ジョージア・オキーフの生涯を解説!

2023/01/31
TRiCERA ART TRiCERA ART

花の絵画、ニューヨークの都市画、ニューメキシコの山々の風景画でよく知られるジョージア・オキーフ(Georgia O'Keefe)は、20世紀のアメリカで活躍したアーティストです。
20世紀初頭、オキーフは当時は珍しかった女性アーティストとしてアメリカン・モダニズムの最前線に立ち、その代表的な人物と評されました。
カラフルな花を大きく拡大し抽象画のように見える花の絵や、晩年に取り組んだニューメキシコの風景画などで知られています。
今回は、オキーフの人生と、彼女が現代美術に与えた大きな影響を見ていきましょう。
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《レッド・カンナ》1924年

ジョージア・オキーフの基本情報

生没:1887年11月15日 〜 1986年3月6日(98歳で没)
出身:アメリカ、ウィスコンシン州
芸術運動:アメリカンモダニズム、プレシジョニズム
教育:シカゴ美術館附属美術大学、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク、コロンビア大学
関連人物:アルフレッド・スティーグリッツ(夫、アメリカを代表する写真家・アートディーラー)


ジョージアオキーフの生い立ち

ジョージアオキーフは、1887年、アメリカ五大湖の一つミシガン湖に程近い街、サン・プレーリー(Sun Prairie)の農家に生まれました。
オキーフ家は7人兄弟で、ジョージアは上から二番目の子供でした。
オキーフは極めて早熟な芸術における才能を示したことで知られており、10歳という幼さで画家になることを決意。姉妹のイダとアニータと共に、地元のサラ・マンという水彩画家に師事し始めました。

シカゴ美術学校、アート・スチューデント・リーグへの入学

1905年、8歳の時にシカゴ美術館付属美術学校に入学しました。そこでは、常にクラストップの評価を得ていたといいます。
腸チフスのために1906年から7年まで休学し、1907年にはニューヨークのマンハッタンにあるアート・スチューデンツ・リーグに入学します。
1908年にはアート・スチューデンツ・リーグで《銅鍋を持った死んだウサギ》という作品で静物画賞を受賞しています。
この受賞の副賞としてニューヨークに旅行し、将来の夫であるアルフレッド・スティーグリッツが共同運営していたアートギャラリー「291」などを見学しました。
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《死んだウサギと銅鍋》1908年

イラストレーターとなり、その後美術教師に

両親のビジネスや健康の不幸により芸術大学での学びを続けるための資金がなくなってしまったオキーフは、1908年に学校を辞め、プロのイラストレーターとして働き始めます。
1910年まで働き、その後麻疹にかかったりなどもありつつも、同年に家族でヴァージニア州のシャーロットビルに引っ越しました。
この頃は4年間ほど油絵を中断しており、のちに「テレピン油の匂いで気分が悪くなる」と言っていたと言われています。
この地で、ヴァージニア大学のアートコースのサマースクールに参加したオキーフは、アーサー・ウェズリー・ダウという画家の様式にふれ、その新鮮さに衝撃を受けました。
彼のスタイルは当時パリの美術界を席巻していた日本美術に影響を受けたデザイン性の高いもので、オキーフはそれまでの伝統的な写実画からより平面的な構成を実験し始めました。
1912年から14年の間、テキサス州のアマリロで美術の授業をもち、教師として働きました。
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《無題(ヴァージニア大学のロタンダ)》1912 - 1914年

コロンビア時代の抽象ドローイング

1915年、オキーフはコロンビア大学のアートコースで教えていました。
この頃手がけていた木炭デッサンは、彼女自身の内的な感情を形にしたもので、独創的な表現を見せ始めています。
このデッサンはオキーフの友人に送られ、最終的に291ギャラリーのスティーグリッツの目に止まりました。
彼はオキーフの作品を「ここしばらく291で見た中で最も純粋で美しく、真摯なもの」と絶賛し、1916年4月には291ギャラリーでオキーフのドローイング10枚が展示されました。
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《ドローイング13》1915年|メトロポリタン美術館所蔵

抽象画であり、同時に風景画であるという独創性

コロンビアでの仕事を終えた後、テキサスに移り住みました。
日没と夜明けを好んでいたオキーフは、散歩で見かけていた風景を描き始めます。それが、パロ・デュロ・キャニオンの連作です。日が昇る時と日が沈むとき、ドラマチックなコントラストが生まれます。
闇に包まれた風景の色彩と、輝く太陽の光が、鮮やかな色彩で表現されている秀作のシリーズです。
オキーフは、タブローを描き始める前のスケッチをそこまで作り込みませんでした。むしろ、描いていく中での即興的な仕事に興味を持っていたのです。
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《赤い風景》1916 -1917年|パンハンドル歴史博物館


彼女の仕事は、「抽象画でありつつも同時に風景画である」という点に独創性があります。
パロ・デュロ・キャニオンでの連作をはじめとして、オキーフは自身の感情的な部分を風景をシンプルに描くことによってどのように表現するかという方法を模索していました。
《地平線に昇る光》という水彩画シリーズを描いた時、彼女は自身の表現したかったものを最もシンプルに表現できたと確信しました。
このような抽象と具象の融合はオキーフの最大の特徴に進化していきますが、スティグーリッツとの関係を深めていった彼女は水彩を使うことをやめるよう勧められます。
当時の美術界では、水彩絵の具はアマチュアの女性画家が使うものだという常識があったためでした。
これ以降、オキーフは油絵具を使ったタブローを制作するようになります。
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《地平線に昇る光》1917年


スティーグリッツとのニューヨーク時代

1918年、オキーフよりも24歳年上のスティーグリッツは、彼女に資金面での援助とニューヨークの居を提供しました。
スティーグリッツと徐々に仲を深めていったオキーフは、彼の周りの様々な画家や写真家とも交流を始めました。
その中には写真家のポール・ストランドなどもおり、スティーグリッツ自身の写真とともに彼女に大きな影響を与えたと考えられています。
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ポール・ストランド《ウォール・ストリート》1915年

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アルフレッド・スティーグリッツ《操舵》1907年|メトロポリタン美術館

自然をテーマにしたシンプルな抽象画

この頃からオキーフは、花、葉、岩などをモチーフに、幾何学的な形態とも取れるような絵画を制作し始めています。
1922年に描かれた《青リンゴ》は、その中でも代表的な作品です。
この作品を描いた頃、オキーフは以下のように語っていました。

「物事の真の意味に到達するのは、選択と、消去と、強調によってのみである」


また、《青と緑の音楽》も自然のモチーフを幾何学的な要素に還元して描いた代表的な作品です。
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《青と緑の音楽》1921年


オキーフの代名詞・花の絵画の時代

オキーフは、生涯でおよそ200枚ほどの「花の絵画」を描き、彼女の代表作となっています。
そこでは、まるで拡大レンズを通して見られたように、巨大なキャンバスの画面をはみ出すほどのスケールで元々は小さな花の内部が描かれています。
この特徴をよく表しているのは、《オニゲシ》と《レッド・カンナ》のシリーズです。
血のように赤い色彩が一目で鑑賞者に印象付けるこれらの作品は、花の生命感と、ただ美しいだけではないある種の生命の恐ろしささえも感じさせます。
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《オニゲシ》1928年

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《レッド・カンナ》1927年

オキーフの絵画に見られる女性性と特殊性

ポール・ローゼンフェルドは、1922年、「オキーフの作品は女性性に貫かれている」と批評しました。
彼女の、特に花の絵画に見られる色彩と形態は、女性器を連想させると言われています。
オキーフの絵画が女性性を隠喩しているという見方は定式化しつつありますが、オキーフ本人は一貫してそのような意味づけを拒否していました。
しかし、作品の意味づけの議論は置いておいても、オキーフの作品の価値は常に高騰し続けています。
2014年11月、《ジムソン・ウィード No. 1》は4400万ドル(当時の為替で約46億6千万円)で落札されました。
この価格は、それまでの女性アーティストによる作品価格の3倍以上の値段であり、オキーフの評価の高さが窺えます。
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《ジムソン・ウィード》1936年

オキーフが描いたニューヨークの摩天楼

1925年にニューヨーク・マンハッタンのシェルトン・ホテルの30階の居室に移住したオキーフは、超高層ビルや摩天楼をモチーフに絵を描き始めました。
《ラジエーター・ビルディング》はその中でも、最もオキーフのペインティング技術と単純化の幾何学を窺い知れる作品でしょう。
ライトアップされるシェルトン・ホテルと、ビルの隙間を縫うように走る高速道路が照らされて、幻想的な雰囲気を醸し出しています。
オキーフ独自のビビッドな色使いは見せつつも、夜景というシーンに合わせて抑えられた色数が非常に人気の高い作品です。
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《ラジエーター・ビルディング》1927年


ニューメキシコ、新天地での円熟期

1929年、友人のレベッカ・ストランドとともにニューメキシコ州のタオスを訪れたオキーフは、そこで多大なインスピレーションを与えられます。
タオスでは、当時女性芸術家に積極的に支援をしていたメイベル・ルーハンのもとに滞在しました。
滞在先の家から眺望できたタオス山の風景や、ゴツゴツした荒々しい岩肌が目立つ自然の素朴さを感じさせる風景の中で、オキーフはスケッチと取材を続けました。

オキーフの牛骨の絵画

それから毎年のように一年の幾らかをニューメキシコで過ごすようになったオキーフは、散歩や取材の際に道端に落ちていた骨や石を蒐集しました。
これらのモチーフは、生命の死をテーマとした一連の骨の絵画シリーズへと繋がっていきます。
荒野での散策は、お気に入りのフォードAでドライブしていたといいます。
オキーフはニューメキシコの土地を特にお気に入りにしており、友人へ語ったところによると

「本当に美しくて、未踏の、どこか寂しい感じがする場所なの。まさに「遠くの場所」というべき、前も描いたのに、今でもまた描かなければという風に思わせるような、そんな場所」


牛の頭蓋骨をモチーフにした絵画はこの頃と、1930年後半以降に描かれました。
1932年から30年代後半までは、精神的な問題により制作が中断されていました。それは、夫のアルフレッドの情事が原因だと言われています。
しかし、1936年には再び制作を再開、おそらくオキーフの作品の中でも最もよく知られているものの一つ《夏の日》などが描かれました。
この作品は、まるでシュールレアリスムのように、牛の頭蓋骨が宙に浮き、ニューメキシコの赤い土でできた山脈と地平線が見晴かせます。
どこか懐かしさと可愛らしさを保ちつつも、明らかに花の絵画の時代とは異なった「死」やその「悼み」をより全面に感じさせるような画面構成になっています。
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《夏の日》1936年

ハワイ、パイナップル社への作品提供

アメリカ国内で最も歴史があると言われている広告代理店、N. W. Ayer & Sonからコラボレーションの依頼を受けたオキーフは、これを快諾します。
過去にN. W. Ayer & Sonと協働したことのあるアーティストには、イサム・ノグチなども含まれていました。
この企画によりハワイに渡航したオキーフは、オアフ島、マウイ島、カウアイ島、ハワイ本島などの地で9週間滞在しました。
特にマウイ島では、完全に自由な時間が与えられたため、存分に制作のための取材に集中できたといいます。
この時の取材をもとに、ニューヨークに戻ってから、オキーフは20枚の官能的で行き来とした植物の絵画を仕上げました。
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《パイナップルの蕾》1939年

アメリカ全土で回顧展の開催

1940年代になると、シカゴ美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での回顧展が実施されます。
1946年に開催されたニューヨーク近代美術館での個展は、当館で個展を開催した初の女性アーティストとなりました。

黒い土地と白い土地の絵画

回顧展の前後、オキーフは《黒い土地》、《白い土地》のシリーズを始めます。
オキーフによれば、黒い土地は「何マイルもあるゾウの背中と、白い砂がついた足の裏のよう」であったようです。
ニューメキシコ、アビキュー(Abiquiú)の土地では白く切り立つ絶壁をモチーフにしていました。
ブラック・グレー・ホワイトの無彩色シリーズとも呼べるこの時期の絵画は、より抽象度を増しています。
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《黒い土地 II》1942年|メトロポリタン美術館所蔵

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《黒い土地、グレーとピンク》1949年

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《白い土地》1941年

オキーフの晩年

オキーフは、晩年には天へと続くハシゴをモチーフにした象徴的な絵画や、雲の上から雲を見下ろすような浮遊感のある不思議な絵画を描きました。
これらは、それまでの抽象的でありながらもあくまで観察に忠実に描き続けたスタイルから逸脱し、想像力に任せた画面構成を取り入れています。
熟年をすぎ、晩年に差し掛かっていた中でも、新しい制作の方法を模索し続けたオキーフの貪欲さがわかります。
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《月へのはしご》1958年

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《雲の上の風景 IV》1965年

60年代から70年代にかけて、ウスター美術館やホイットニー美術館でも回顧展が開催されます。
ホイットニー美術館では、彼女の作品が掲載されたカタログの発行もしています。
70年代、84年の最晩年まで、オキーフは鉛筆と木炭、水彩などで制作を続けていました。


オキーフの評価のされ方

フェミニストとしての評価

フェミニスト運動を推し進めたアーティストのジュディー・シカゴは、自身の《The Dinner Party》(1979年)の中で女性アーティストの歴史を振り返りましたが、その中で「官能的でフェミニスト的な図像をアートの歴史に初めて持ち込んだ人物」として特別な強調をされました。
しかし、オキーフ自身はフェミニストやその観念を推し進めるアーティスト、「女性アーティスト」と呼ばれることを忌避しました。
彼女はむしろ、単に「アーティスト」と呼ばれることを好みました。

花の絵画の隠喩性

オキーフの花の絵画のシリーズは、女性器の外陰部を象徴しているという指摘が当初からされていました。
アート・ディーラーのサミュエル・クーツは、彼女の作品における性的表現を問題視していました。
しかし、これに対してもオキーフ自身の立場としては絵画とそれに関連はないという点を貫いていました。
オキーフは、「私の絵画にエロティックなテーマを読み取る人は、むしろ自らの欲望を読み込んでいるだけだ」と主張しました。


ジョージア・オキーフと関連したアーティスト紹介


Muriel Napoli
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Nature 133 by Muriel Napoli


Mukhamadeyeva Zulfiya
Zulfiya
Admiration by Mukhamadeyeva Zulfiya


Jooha Sim
joohasim
Poppies keep blooming by Jooha Sim



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著者

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現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net